2023年の春から受講している自己解放プログラム、前回の自由課題の続きです。
前回のはこちら。
「自分自身の美しさ」を表現しなさい
今回は、 「他者評価される自分自身の美しさ」を表現しなさい です。
これも難しい。
「あなたは美しい」とか、最近じゃFacebookでコメント入れてくる怪しい男性にしか言われない。
昔は言われてたんか?記憶にない。
前回に続いて書き留めておく。
自分の「気持ち悪い」「醜い」はほかの人にとっては「魅力」なのかもしれない
自分に対して、人から「可愛い」「キレイ」と言われることに、違和感がある。
だけど、課題に取り組んで提出した自撮り画像。
意外な発見があった。
自分では「エグい」と思っていた自撮り画像に、「かっこいい」「言葉にできない美しさ」「なんか好き」というコメントをもらったのです。
自分が「気持ち悪い」「醜い」と感じることも、ほかの人にとっては「魅力」なのかもしれないと思った。
例えば、性的指向(嗜好)がマイノリティな人は、その人に限定することでほかとの競争を避けられるし、マイノリティ当事者には「私を愛してくれる貴重な存在」として絆が深まるかも。
そうなれば、魅力でしかないように思う。
そんなことを妄想した。
美しさ?を表現した
私の場合、他者評価を受ける「魅力」はまず、「生きていること」「性と性自認が女性であること」かな、と思った。
まず、生きてることは絶対的な価値だと思う。
女性性と性自認が一致していることもマジョリティ、生殖・子孫繁栄にとっては価値。
まず、そう考えて現実的、女性、であることを押し出す自撮りを試みたのでした。
美しさ・魅力・価値。
考えているうちにごっちゃになってきた。
私の体のパーツで大事にしたいのは、「おへそ周りの膨らみ」です。
ファスティングやってお腹がペタンコになったときは、ヤバいと思った。
私が思う「私の女性らしさ」が損なわれると思った。
(そして今は想定以上に膨らみを保っている…。ちょうどいいあんばいは難しいものですね。)
おなかを撮影しようとして、服を脱いでポーズを撮った。
なかなか、おなかが私の思う「いい具合」に映らない。洗面所の鏡に映ったのはいい感じなのに。
自分でOK・NG決めるより、いろいろやってる過程、全部提出したらいいんじゃないかと思った。
いわゆる下着姿の自撮り、アルバムで閲覧する画面で12枚くらいかで提出した。
「私の好みなんて当てにならない」
「私というか、誰かの一評価、何かのタグとかカテゴリとかで分けられる人たちからの評価も当てにならない」
「それを超えたほうが、自分が知らなかった自分の魅力みたいなものに出会えそう」
そんな気がした。
「なんでもアリで、なんでもダメ」
それを決めるのは自分なんやな、と。
ミスコンもその界隈の基準でしかない。
どこかの部族にとっては、首長いのが絶対的価値とか?足が小さいのが鉄則とか?
評価は慣習とか好みでしかない。
賛否両論は普遍。
キリストだって賛否両論あるんやもん。
まさかの「カワイイ」の言葉をいただき…
私の自撮り画像を見た皆さんから「カワイイ」などの称賛の言葉をいただいた。
自己解放プログラムだから「新しい自分を表現する取り組み」とか「一皮脱ぐ」みたいなことを歓迎してくれる皆さんだとは思っていた。
思ってはいたけど、まさか「カワイイ」と言われるとは思っていなくて、驚いた。
「健康的」と言われたことも嬉しかった。
黄色黒い肌も、コンプレックスだった。
もっと白い肌がよかったから。でも健康的に見えるならアリだなって思った。
白い肌のほうがもっちりやわらかそうだけど、黄<黒の順で強さが感じられるのかも。
『HOMECOMING』のビヨンセは強くて美しい。
黒い肌の人は、生命力とか先天的に体と脳のつながりがすごくイイように思う。
白い肌の人は淡い色の化粧も映える。
黄色は??
ベースメイクで白や黒に寄せることもできるから、どっちにも転べるのかな??
そんなことを考えた。
「もうちょっと、こういうの欲しくないですか?」
プロデューサーのたみ子さんが私に言う。
このあたりの話は、たみ子さんのメルマガ(ホームページのコラム)に掲載されています。
そこで、「健康的な露出」を自撮りしたのが、『ダメなわたし自典』5ページの画像です。
どうぞ、9月30日、見てやってください。
「美しさ」の話、一旦ここで終わります。
まだまだ続きがあるんで、また気が向いたときに話します。
気が向いた。