自分らしいって何だろう?
「たけちゃんらしいね」って言われて、なんか嫌な気がするときがあるのは何でだろう?
先日から、「生きづらさって何?」「自分らしさって何?」という、正解のないような疑問を抱いて、幾夜を明かし、とうとう「これかっ!」ってものが見つかった気がする。
自分らしさは、自分で認めるしかないんじゃないか。
人に言われたことをそのまま受け入れるでもいいし、拒否するでもいい。
「これが自分」ってものがあると、「自分らしいって何?」という迷いがないんじゃないかな。
でも、「これが自分」をすっきりまとめて話すのは、本当に難しい。
先日、「アート合宿」なるものに参加して、絵を描いてきた。
その絵を通して見えた「自分らしさ」を書いてみる。
大広間で10人くらいで絵を描いた。
私は、自分の絵と人のを比べていた。
いつもどおりだ。
「あんなふうに描きたい」と思って描いてみたら、全然満足できなかった。
あの人みたいに幻想的で美しい情感は私には出せない。
私にはここからどうすることもできない。
あの人みたいにカッコよく力強く描けない。
弱っちくなった。
私にはまだ早い。
娘が好きな色を使ったけど、いじりまくりたくなっていろいろ描き加えてしまった。
終わりのない世界の絵になった。
気づいたら娘のことは置き去り。いつもの私。
頭の中もうるさかった。
「ここにいる」アピールをした絵。恥ずかしくて見てられない。
パッと見は普通の絵。私だけが恥ずかしい。
「ちょっとわかりにくいけど、実は〇〇なんです(ドヤ)」みたいな、おしゃれな絵を描こうとしたけど、しっくりこなくて。
塗り直して実際の風景に近づけた。
「たけちゃん、それ、おたまじゃくし?」って、見てくれた人に伝わった。
わかってくれてありがとうございました、の絵。
9枚の絵のうち、3枚が親子や家族を思いながら描いた。
私のテーマって、やっぱり「家族」なのか!
そう思い知らされた。
そんな感じだった。
どれもうまいってわけじゃない。
美術の授業なら「対象をもっとよく見て描きなさい」って言われるような絵。
そう思う。
この絵は、そこら辺をつたっていた、可愛いまるい葉っぱを思い出しながら描いた。
場所によって微妙に色も形も違う。
水辺の岩でも、樹齢2000年以上の木でも、神経図太くまるい葉っぱがつたっている。
けなげで可愛い。
水景の苔や水のきらめきも好きだけど、なぜか葉っぱの虜になって、めちゃたくさん描いた。
はじめは岩も苔も木も空も描いてたんだけど。葉っぱばっかりになった。
アート合宿。
私は正直、合宿参加を申し込んだときの気持ちが最高潮で、初日は目的も目標もなし。
日常を離れることは楽しみだったけど、絵を描くことに関しては不安が大きかった。合宿への期待も薄れていっていた。
合宿初日、テーマを与えられた絵を描いた。
私は課題をこなしただけだった。
ほかの人みたいに描きたい衝動がわいてこない。
エネルギーある人たちからはみ出た自分。
「しょーもないな、私」
ちょっと寂しかった。
年季の入った布団でゴロゴロした。
ぐっすり寝て起きて、予定まで時間があったから朝風呂に入った。
昨晩は、絵具を落とすため、とりあえず体をきれいにするため、ひたすら体を洗っていた。
でも、朝風呂は違った。
朝のお風呂は明るいし、温度がすごく気持ちよかった。
温泉成分かな、肌もちゅるんちゅるん。
誰もお風呂に来ない。私、ひとり。
お風呂は狭いし、掃除も行き届いてるとは思えない。
でも湯舟から見た景色が、すごく美しく感じた。
あ、この色の感じきれい、絵に描いてみよう。
朝の支度をして、大広間に向かった。
お風呂で観た景色を思い出しながら描いた。
キャンバスに自分の思い通りの色が乗せられて、嬉しかった。
本当は、こんなんじゃないけど、私の頭の中にあって、そこから出してみたい私の感じた世界はこんなだなーと。
頭の中のイメージが、そのまま絵に出た。
今思うと「おめでとうございます」って感じ。
お風呂の床はたぶん、みんなが感動するほど「きれい」じゃない。
ほかの人の絵と自分の絵を見比べると、「中身のない自分」を観てるような気持ちになった。
まだまだ私には描けない絵があることを知った。
おかげで、ほかの誰でもない「自分」と「自分の現在地」を確認できた。
カッコいい絵を描こうとしてもうまくいかなかったし、それなりにしかなれなかった私。
あの狭い古いお風呂を楽しめる私。
その全部、今の私だ。
2021年に参加したアート合宿、また企画されています。
竹本ひろこ|コンテンツ組み立て人
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