なぜ、できないんだろう?
私はあの人と同じような価値観をもっているのに、なぜ、同じようにできないんだろう。
と感じることがあり、どう違うのかが気になりました。
現段階で行き着いた結論は、「素直」と「ねじれ」の違い、です。
同じような出来事があっても、どのように捉えるかは、人によって違います。
目のつけどころが違うってのはまだわかるけど、全く同じ出来事なのにと捉えかたが違うっていうのは、なかなか奇妙で面白いことではないかと思いました。
可愛いブロックについて、再び考える
人から「あなた可愛いですね(かっこいいですね)」って言われたら、どう感じますか?
素直な人なら「ありがとう!(私、可愛いんだ!)」って感じるのかな?
以前の私は、人から「可愛い」と言われても、言葉通りに受け取れませんでした。
「私はどう見ても可愛くはない」と自分自身を捉えていたので、私に「可愛い」という人に対しては「お世辞ですよね」「何か裏があるだろう」など、疑心暗鬼でした。
「可愛い」という人からの反応を受け取り拒否する現象を、私は「可愛いブロック」と名付けました。
この現象に気づいた時点では、「ありがとうございます。あなたはそう思うんですね。」とお返事しようと心に決めて、だんだんそう反応できるようにはなっていた気がします。
でも、なんだかずっと腑に落ちなかった。
「この私のどこが可愛いんですかね?教えてくれませんか?」
そんな気持ちでいっぱいでした。
あ、嘘つきました。
そんな気持ちでいっぱいになるほど言われていません、すみません。
私は他の人の「可愛い」というフィードバックを自分のものとして素直に受け取れていませんでした。
いただいたフィードバックよりも、「昔からもっている基準」を採用しがちであることに、最近気づきました。
せっかくもらったフィードバックよりも優先する基準ってなんやねん、そう思われますか?
聞いてください。(読んでください。)
昔からもっている基準とは、「他者評価の蓄積」です。
乗っ取られ現象「他者評価が自分の基準」
「おばさんがミニスカート履いたら痛い」
「太っていると何やっても似合わない」
誰かに直々に言われたことはないし、どこかでそういう話を聞いたような記憶があるだけなんです。
なのに、そういう話を採用してしまっています。
なぜなんでしょうか。
「おばさんとは、だいたい30代からです」「いえ、40代からです」「いえ、子どもを産んだらおばさんです」
いろんな人のいろんな意見があるけど、弟に子どもがいる私は、姪に対して「伯母さん=おばさん」ではあります。
「ファッションモデルのような体型が、太ってなくて、スタイルがいいってことです」
この意見は最近ではくつがえってきました。
外見がいい人が素晴らしいというルッキズムに物申す意見も目立ってきたからです。
でもルッキズムは、まだ根深く残っているように思います。
女性アナウンサーは、まず容姿で採用のふるいにかけられると聞きますし。
私にとって、他者評価の蓄積を採用したおかげで、身についたのは社会性でした。
「あの子は足が細いからルーズソックス似合うけど、あの子は足が太いからちょっと…」とかいう話も聞いていましたし、いかに脚を細く見せつつ、ルーズソックスを履くかとかに、周りの子と一緒になって必死だったように思います。
「みんなと同じ」ようにすることで、連帯感は生まれなかったけど、服装のことで仲間外れにされたことはなく、孤立感も生まれませんでした。
自分の服とか装いというのは、「周りと同じに見られたくない」とか「周りから浮きたくない」というような意識の表れなのかもしれません。
どっちの風潮を社会が採用するかによって、そのとき良しとされる意識も変わってきそうです。
賢い人は、絶対の基準なんてないと知っているのだと思います。
むしろ、そんなことは考えずに「教えてくれる人についていく」それだけなのかも。
「自分よりこの人の意見に乗っかってみよう」という感じなのかも。
それが私は「素直」だなと思うのです。
「ねじれ」は生まれてどこへ行くのか
私は生きてきた中で、勝手に傷ついています。
人生のどこかで、こんなことを学習してきたっぽい。
- ミニスカートが似合うのは、脚が細い人、若い人らしい。そうじゃない人が履くとBADらしい。
- ミニスカート履いたら、誰かにBAD反応もらって傷つきそう。
- 実際にミニスカート履いても、脚が太くて、似合わないと感じる。
- ミニスカート、履かないし買わない。
実際には、自転車に乗ることが多くて動きづらいから、私はミニスカートは履かないのですが。
万事、そんな調子で私は生きてきたかもしれません。
傷つくのが嫌で、そのときにとる行動が私は「逃げる」なんです。
そうすると傷つかないけど、何もしないことでなぜか傷ついていたりします。
「やってもできません」の構図をもっているので、「私はどうせやってもできません」と言いがち。
傷つくのが嫌で、「挑戦する」「戦う」という人もいるかと思います。
その人は「私はやったからできた」の構図をもっているので、「なんでできないの?やらないからできないだけなんじゃないの?」と言いがち。
そんな気がします。
素直な人は、自分の構図があったとしてもそれを持ち出さずに、まっさらな気持ちで、「言われたとおりにやってみる」んじゃないかと思います。
どれがいいとか悪いとかじゃなくて、素直でもねじれがあってもなんでもいいんだと思います。
自分が望んだ現実を手に入れられているんだったら。
素直とねじれは、出来事への反応でも、コミュニケーションでも違っていそうで、生きづらさの感覚にもつながりそうな気がしていて、私はそろそろ「ねじれ」をほどきたい。
そんなことも、誰かと話し合いたいです。
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竹本ひろこ|コンテンツ組み立て人
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