もう執筆されてから10年以上たつのですね。
私はパートナー・セラピスト沙恵さん(滋賀・女性)から、この本をいただきましたが、読み終わるまで1年以上かかりました。
なんかすみません。
文体が堅かったのか、漢字の量なのか、なぜだか読むのがしんどいって感じていました。
読んでみると、書かれてある内容は非常に興味深く、面白いことばかりでした。
あ、すみません。
一部「ふーん」としか思わなかったものも、正直あります。
でもでもエッセイって、たいがいそういうものではないでしょうか。
(個人的に星野源さんの『よみがえる変態』は別格でした。多くのエッセイを読んだわけでないけども。)
先生の『無趣味のすすめ』を読んで、先生の小説も読みたくなったのは本当です。
実際に読むかどうかはわかりませんが、読みたくなったのはほんとうの気持ちです。
では、私しか関心がないことだと思いますが、章ごとに私の感想を書いていきます。
「無趣味のすすめ」を読んで
2009年執筆当時から、ずいぶん時代は変わったと思う。
趣味と仕事と息抜きは別モノ。それは分かる。
でも、これは理解できない。
趣味が基本的に悪いわけではない。だが基本的に趣味は老人のものだ。
老人も多様になってます。
でもそれ、2009年時点でも人それぞれじゃないでしょうか?
先生が「老人」に関心がなかったから、おおざっぱに捉えられていたのではないでしょうか?
老人みんなが、保守的で穏やかとは限らないと私は思うんです。
抑制がきかずに交通違反を犯す、じいさまやばあさまもいます。
マジでうちの近所の通学路には、堂々と信号無視で渡るじいさまをちらほら見かけます。
ネコと小学生とじいさまには毎日気を遣って運転しています。
あ、保守的とかの比較になる話ではなかったですね。
でも、先生の趣味のイメージが、私のものとずいぶんかけ離れているように思います。
ここです。整理したのでご覧いただけないでしょうか。
趣味とは
・必ずその人が属す共同体の内部にあり、洗練されていて、きわめて完全なもの。
・考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうなんてことはない。
・自分を脅かすものはない。
・人生を揺るがす出会いも発見もない。
・心を震わせ精神をエクスパンドするような失望も歓喜も興奮もない。
2009、幻冬舎、村上龍、『無趣味のすすめ』参照
うそやんって思いました。
そう思って、「趣味」という言葉を調べてみました。
人間が自由時間に、好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと。
Wikipediaより
「自由時間」というのは、1日24時間から食事・睡眠などの「生活時間」と「就学・就労の時間」を除いた時間のことかと思います。
今時分、仕事と趣味とその他、活動の境目が曖昧になってきているように感じます。
また話が逸れるんですが、うちの夫の話をします。
夫はずっと前からコレクターです。
特にトイストーリーグッズと、アウトドアグッズと、アメリカの古着が好きです。
最近、メルカリ出品もはじめました。
好きなことで稼ぎはじめたんです。
メルカリで売上を出さなければ、家のローンが返せなくて困るというわけではないし、メルカリの売り上げは夫のお小遣いになります。
仕事なのか、趣味なのか。
なんなのかわかりません。わからないけど、やりたいからやっているだけなんです。
私はやりたいことをやるのが好きだから、やりたいことをやっている人は素敵だと思います。
やりたいことがなくて、人から求められることをやっている人は尊敬します。
今の私にはできないから。そういう人がいないと、社会が機能しないはずで。
だから、何と言いますか。
趣味とか仕事とか、別にあってもなくても、自分にとっての「いい感じ」で暮らせていたらどっちでもいいなあって、私は思います。
だから私は無趣味を特別すすめません。
「『好き」という言葉の罠」を読んで
先生、このお話、みなさんにシェアしたいので、そのままそっくり引用しちゃいます。
「好き」という言葉は曖昧だ。意味が曖昧なわけではない。言葉に込められる感情の強さの度合いがはっきりしないのだ。ないよりはあったほうがいいという程度の「好き」もあるし、それを奪われたり失ったりしたら死んでしまうかも知れないという強烈な感情や意志を伴う「好き」もある。私事で恐縮だが、わたしは小説を書くのが好きではない。じゃあ嫌いなのかというとそうでもない。おそらくそれがなくては生きていけないくらい重要で大切なものだが、非常な集中を要するのでとても好きとは言えないのだ。わたしにとって小説を書くことは好きという言葉の枠外にある。
2009、幻冬舎、村上龍、『無趣味のすすめ』P.24~29より
子どものころから文章を書くことは得意だったが、好きではなかった。もし自分が小説を書くことが好きだったらどうなっていただろう、と考えることがある。もし好きだったら、たぶん日常的な行為になっていただろう。つまり小説を書くことが自分にとって特別なことではなくなっていただろう。もしかしたら小説を書くことそのものに満足を覚えるようになったかも知れない。執筆が日常的行為と化すこと、書くことものに満足すること、いずれも予定調和にも要因となる。わたしにとっては忌避すべきことだ。
「好き」という概念を否定しているわけではない。だが好きという言葉は自家撞着・満足の罠に陥りやすい。程度の差はあっても、好きという感情には必ず脳の深部が関係している。理性一般を司る前頭前皮質ではなく、深部大脳辺縁系や基底核が関わっている。「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から湧いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に、他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。
「なぜあの人が好きなの?」「お金持ちだから」というようなやりとりを想像すればわかりやすいが、説明可能なわかりやすい「好き」は、何かを生み出すような力にはなり得ないのだと思う。
ここに書かれていることは、「好きという言葉に罠があるよね」ということですよね。
私は、こういうふうにも読みました。
「好きということを論理的に理解説明できるようになれば、何かを生み出す力になるんじゃないかな」と。
なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないと思う。
2009、幻冬舎、村上龍、『無趣味のすすめ』
でも、
- いつ知ったの?
- どんなふうに楽しんでるの? お金とか時間ってどれくらいかけてるの?
- それに触れているときは、どんな気持ち? 例えるとしたらなにに近い?
- 私がやっても楽しいと思う? どんな人が合いそうなの?
- 初心者にはどういうのが良さそう?
こんなふうに質問を変えたら、「好き」について答えられるんじゃないかと思ったんです。
あと、「雑談」からアイデアが生まれるって、よく聞きます。
自分の好きなことについて、理解しようとしてくれる相手がいれば、いくらでも話したくなります。
だが好きという言葉は自家撞着・満足の罠に陥りやすい。程度の差はあっても、好きという感情には必ず脳の深部が関係している。理性一般を司る前頭前皮質ではなく、深部大脳辺縁系や基底核が関わっている。
2009、幻冬舎、村上龍、『無趣味のすすめ』
自分自身について話すことは、脳の快楽や満足に関係する脳の神経領域を活性化させる、という研究結果もあるようです。
先生の「好き」トークから、違う方向に話を広げてしまいましたねえ。
『最高傑作と「作品群」』を読んで
これ読んで、個性研究と天才研究をしている人に送りたいって思ったんです。
いやでも、もう当たり前すぎることが書かれてあるので要らないかも、とも思ったんですが、当たり前こそ大事だし、先生がおっしゃるから大事だって思ったんです。
こちらも全文、文字起こしさせていただきました。
最高傑作というのは誰にでも作れるものではない。
芸術作品や文学、また他のプロダクツ、それにパフォーマンスでも、その人物が作り出した「作品群」が前提として存在しなければならない。当たり前のことだが、たった一つの作品やプロダクツではそれがどんなに優れたものであっても「最高」かどうか判断のしよがない。そして「群」と呼ばれるようなまとまった作品を残す人物はそれほど多くはない。
天才と呼ばれる人間がいる。その定義はまちまちのようだが、重要な条件として「作品群」を残すということがあるように思う。天才というか、後世に名前と影響力を残す芸術家はたいてい多作だし、また科学者などの仕事は「体系的・重層的」であることが多い。天才とほとんど同義語になっているモーツァルトの作品の多さは、音楽に定型があった時代ということを差し引いても想像を絶している。
最高傑作という言葉に値する仕事をするためにはまず多作であることが求められるわけだが、それだけではない。「体系的・重層的」な作品群であることが必須で、要するにルーティンワークを拒絶していなければならないのだ。同じようなテイストとモチーフの作品を、まるで上着だけを着替えるように次々と作り続ける表現者もいるが、それらは厳密に言うと「焼き直し」で、「作品群」ではない。
最高傑作という言葉に関わる誤解があるように思える。自らの最高傑作を作るという強い意志を持って作品に向かう、みたいな行為がまことしやかに語られたりするが、そんなのは大嘘だ。表現者は、新しいモチーフを獲得して、それまで培った情報と知識と技術を総動員し、「結果的に」自らの限界に挑む。ただそれだけのことで、表現者本人には「最高傑作」などという概念はない。出来上がったあとで、ひょっとしたらこれは過去最高かも、と思うことはあるかも知れないが、完成前に「これを最高傑作にするんだ」と公言するような表現者がいたら彼は偽物である。表現者にとって重要なのはより質の高い「作品群」を作り続けることであり、最高傑作などという言葉は(宣伝用の惹句としては有効だろうが)、批評家やメディアに勝手に言わせておけばいいのだ。
2009、幻冬舎、村上龍、『無趣味のすすめ』p.36~40
より質の高いものをたくさんつくりたいです。
私もたくさんTAKEZOをつくっていきます。
「夢と目標」を読んで
先生は、「目標はないと生きていけないもの」とおっしゃいますが、私はそうは思いません。
目標を意識しなくても生きていけます。
努力しなくても生きていけます。
そういうふうに生きていきたいかどうかがすべてではないかと、私は思います。
あえて言うとしたら、「目的を考えずに生きる」という目的があり、「努力をしない、自然体で生きる」という目標があるのではないでしょうか。
「集中と緊張とリラックス」を読んで
集中するためにはリラックスが必要と言われるけど、先生は集中して小説を書いたあと、充実感と達成感と精神的安息が得られるそうですね。
リラックスできて、かつ集中して仕事ができる人は、実はオンとオフの区別がない。(略)「充実した仕事のためには心躍るオフの時間が必要だ」というのは、無能なビジネスマンをターゲットとして、コマーシャリズムが垂れ流し続ける嘘である。
2009、幻冬舎、村上龍、『無趣味のすすめ』
これを読んで、「強(つよ)!」と思いました。
思っただけじゃなくて、付箋に書いてツッコミ入れました。「つよ!」って書いた。
ご自身の著書に「つよ!」と付箋に書いて貼られていることを想像してください。
そういう、先生に共感しにくい層の人にも、先生の本が届いているってことなんですよね。すごいことです。
「リーダーの役割」を読んで
リーダーに求められる役割も、時代の流れなのか、変わってきているように私は思います。
先生はこの本で、
リーダーは「どこに問題があるのか」「何をすればいいのか」わかっている人でなければならない。
2009、幻冬舎、村上龍、『無趣味のすすめ』
そう書かれていますが、私は戦術やノウハウはリーダーなくても考えつくし、リーダーがすべきこととも思いません。
リーダーは、「企ての責任の所在」ではないかと、私は思います。
篠原信さんがよく発信されているようなことです。
ちょっと抜き出しました。
この人についていったら面白そう=劉邦タイプ。
リーダーをバカにしたりできる自由な空気がある。実際、リーダーに大した能力はない。でも憎めない。なんだかそばにいたい。そばに居続けるために、みんなが異能を発揮する。一人一人が育ち、フォロワーの能力が高くなる。リーダーは欠点だらけのリーダーのまま、愛される。ほかのヒーローと比べてパッとしない劉備玄徳。彼の圧倒的な力は、承認欲求を満たす力なのかもしれない。この人なら自分の存在価値を認めてくれる、この人がいれば自分はこの世に生きてていいと思える、そうした承認欲求を満たしてくれる稀有な存在だったかもしれない。
部下はリーダーよりも何かしら優れた能力を持っていると考えるのが適切。
出会う人に信頼感をもつのがいいんじゃないかと、私は思いました。
読書のしるし:『自分の頭で考えて動く部下の育て方』より
もちろん、いろんなタイプのリーダーがいていいと思います。
その国をどうしていきたいか、でリーダーの役割や在り方もきっと変わっていくのでしょうね。
「スケジュール管理」を読んで
スケジュール管理が必要となるには条件があると先生は書かれています。
- やるべきことを複数抱えている人
- やるべきことに優先順位をつけらる人
優先順位が決まったら、それを日程表に書き込むだけ、と。
スケジュール管理というのは毎日の習慣、人生、生き方を管理していくことだと私は思います。
だからね、手帳も書き方も毎年楽しく迷っているだけなんです。
2023年の手帳、決めました。
詳しくは別に書きますね。ルン
『「交渉術」という脳天気な言葉』ってw
タイトルがめちゃウケる! 脳天気www これを途中にぶっこむのは、面白すぎます。
何が「交渉術」やねん。何を脳天気に言いますのや。
そんなもん、当事者間での情報共有がある程度できてないと、交渉術なんて通用しませんよ、と。
そういうことですね。
ここでは先生、
- 相手との関係性を考えること
- 相手の立場に立って考えること
それが大事と話されています。それで戦略が決まるって。
大事なことだと私も思います。
久しぶりに意見が一致したような印象があるかもしれませんが、ツッコミ入れていないところは、「ふーん」とか「確かに!」と感じているので、意見の一致は「久しぶり」でもないです。
まあ、そう言われても知らんがな、でしょうけど。
「仕事における有用な人脈」を読んで
ここで先生が話されていること、以前聞いた記憶があります。
Twitter貼っておきます。
北原さん、カンブリア宮殿に出演されたら、トークが盛り上がりそうな気がします。
「アドバイスについて」とリンクしました
夫が私に尋ねてきたんです。
「頭痛くてロキソニン飲んだら10分後に吐いたんやけど、頭痛は治った。ロキソニン効いたんかな?」
私は答えました。
「知らん!」
私が看護師だから、白黒ハッキリできるんだろうと思って聞いてきたんだと思います。
でも、私は知らんもん。わからんもん。
それでいいんよ。そう思います。
頭痛くなくなったんやから、ええやん。
先生もそう思われませんか?
このあと夫婦間で5分ほど「知らん!」が流行りました。
何を話しても「知らん!」という返事がきます。
私が夫に「それ、気に入ってるやん」とからかうと、「ちゃう!」と夫が笑っていました。
「便利に使ってる」のを、気に入ってるって表現したんですけどね。
先生も、そんなことを書かれていましたね。
ぼくにとっての小説、青木さんにとってのゴルフ、そういうのを持っていない一般的なサラリーマンはどうすればいいんですかね、と聞いた。
すると青木氏は、「わからない」と答えた。「だって、おれ、生まれてから一度もサラリーマンなんてやったことないから、わからねえよ」ということだった。
話はそこで終わってしまったが、スタジオは清々しい空気に包まれた。わからないことをわからないと正直に言う人は少ない。特に識者と呼ばれる人は、とにかくアドバイスしたがる。アドバイスしたりされたりするのが当然という風潮がある。他人に左右されず自分自身の考えを持て、というような矛盾したアドバイスをする人さえいる。
2009、幻冬舎、村上龍、『無趣味のすすめ』
「知らん」「わからん」って即答されるのは珍しいから、印象に残るのかもしれませんね。
そして、案外「嘘がない」って信頼されるものなのかもしれないなって思いました。
これからも使っていきます。
「ワークライフバランス」を読んで
先生の文章を読んで、私なりに図にしてみました。

「ワークライフバランス」って、字面で言うと、上の図みたいな感じだけど、こうじゃないかな?と。

ライフ(生活、人生、命)は、仕事を包括している。ライフの一部が仕事である。
そういうイメージです。
先生の書かれているのとは、ちょっと違ってきているかもです。
私の考えにシフトしてきました。歌ってる歌をパクって歌う、みたいなことしてすみませんが、歌をありがとうございます、という気分です。
「自分にとってのいいあんばい」を見つけて、維持していきたいものです。
だから、図の右側のようなイメージで「自分にとってのいいあんばい」に不均衡が生じることもあるけど、「ライフ」が崩壊しないように対処したいと思います。

第三者支援を使うパターンは、「ライフ」や「仕事」の外側で縮んだ領域をカバーするイメージです。
上はパックマンみたいで、下はおサルのかぶりものみたいでカワイイ。
あ。もう飽きてきましたか?
え?とっくに??とっくに飽きてる??
「企画の立て方」を読んで
この文章を読むだけでも、先生はめちゃくちゃ考える人だってことがわかります。
私の場合は、人が絶賛するようなアイデアを思いつくことはほとんどないけど、「ネガティブケイパビリティ」的な対処を摂ることが多いです。
「ネガティブ・ケイバビリティ(保留の知恵)」とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」のことだそうです。
考えても答えなんてすぐに思いつかないから、一旦考えるのをやめる。
私はキーワードの関連思考(連想ゲームみたいなことです)やエピソード記憶が強いので、何かのきっかけでふと「これってこういうことかな」ってひらめくことがあります。
「ネガティブなことに寛容になる」というよりも、「脳にとどめておく」というのが近いです。
「脳の保留」を教えてくれた「やまけん」さんは、この本をおすすめされていました。
先生、最終章、ずるくないですか?
最初「無趣味のすすめ」を書かれて、最後にコレもってくるの、ずるくないですか?
萌え萌えです。
「結局、小説書くんかい!」ってツッコミ入れつつ、先生は可愛いじいさまなんだろうなあと思います。
やらずにはいられないんでしょうね。
そういうのがあるって、やっぱり楽しい人生だろうなあって思います。
さいごに
長々と書いてしまって失礼しました。
2009年以前の連載をまとめた本書、今もまだ、私以外に読みたがっている人がいます。
先生はやっぱりすごいです。
いちばんに読みたいって言ってくださったあの方のお手元に、この本がなかったら、贈りたいです。
私に100ゾーくださって嬉しかったし。
(100ゾーは「たけぞーの虫めがねLINE」から送り付けられます)